雑記

再掲したりしなかったり。

2006-02-28

鰯の頭教と自己啓発セミナー

過去二度にわたり(※一度目は基本教義の、二度目は「鰯の頭を拝んでる俺達カコイイ!!」のこと)鰯の頭教の定義と説明を同時に行ってきた(人それをその場のハッタリと言う)わけだが、ここで脳内TALから「鰯の頭教とは自己啓発セミナーではないのか」という批判またはネタが生まれたので、今回は鰯の頭教と自己啓発セミナーの違いを明快にしてゆこうと思う。

要約するとつまり、

ということである。

依存心の否定

自己啓発セミナーの持つ、「セミナーに対する依存心を植え付ける」という性質を鰯の頭教は持たない。

鰯の頭教は将来的には「ゆるやかなコミュニティ」の存在を肯定する方向に向かう可能性を持つ(ただしこれは教団という存在が存外長命だった場合に限る)が、これは鰯の頭教および同宗教の「仲間」に対する依存心を喚起させるものではない(理由は後述する)。

物質の否定

自己啓発セミナーの持つ、「金儲け」という性質を鰯の頭教は持たない。

鰯の頭教は将来的には「本部」の存在を肯定する方向に向かう可能性を持つ(ただしこれは教団という存在が存外長命だった場合に限る)が、これを鰯の頭教および同宗教の信者の活動拠点とする必要はなく、したがって金銭や物質の流れは発生しない(理由は後述する)。

また鰯の頭教の提唱する「鰯の頭を尊ぶ行為」とは比喩の一種であり、信念を内包するもの全てが鰯の頭と言える。よって神社に祈ろうが墓に手を合わせようが熱海の秘宝館を見に行こうがガンプラを作ろうが、何をやってもやらなくても鰯の頭教の教義を実践したことになり、やはり金銭や物質の流れは発生し得ない。

活動とメリットの否定

そもそも鰯の頭教は提唱された時点より「もっともらしいことを言っているがその実宗教としては全然成り立っていない」ことを存在意義としており、その教義は宗教独自の世界観と歴史と専門用語と義務と戒律と行事とを全く定義しないため、信者になってもやることが無く、従って信者の連帯感や依存関係が生まれる土台を持たないのである。

「鰯の頭を拝んでる俺達カコイイ!!」

人は、その人が信じようとする事柄に裏付けや正当性を求める。宗教に少なからず物語性や疑似科学が絡んでくる理由もそれだ。つまり人は精緻な嘘にこそ魅力を覚えるし、正しいことを実行するのに躊躇いを持つことはない。

だがしかし、鰯の頭教ではこの「正しいから信じるメソッド」を採用しない。

確かに鰯の頭教が目指すのは生活の向上と心身の充足であり、鰯の頭教が尊ぶのは鰯の頭であるが、それでも鰯の頭教が信じるのは自身の頭と心だ。別の言い方をすると「こんなクソの役にも立たない鰯の頭を拝んでる俺達カコイイ!!」である。

よって鰯の頭教は、「創世と終末」「生前と死後の世界」「唯一絶対神」「神」「高次の存在」「世界の構造」などの諸々の存在や物語を定義せず、従って歴史観や世界観について各人の定義を妨害することはない。


鰯の頭教(仮)

TAL (tal@quadspace.net)